集団と個を比較した過去の振り返りから、新聞でこんな記事をみつけました。
ジェンダーにまつわる呪縛の連載。初回は日本社会で「声をあげる」とぶつかる壁について。
性被害や政治的立場を訴え、社会を変えようと目立つ動きをすると、あらゆる差別や誹謗中傷、デマ拡散など、二次被害を受ける日本社会。
買った覚えのない下着が送られてきたり、「いじめられた」と匿名で何度も拡散されたり。
何でこんなことが起こるんだろうなぁ。
責められるべきは加害者であって、被害者ではないはず。
エネルギーの働く方向が、まったく間違っている。ムダ。もったいない。
でも、悲しいかな、主張した人をたたくことで、快感を得ている人たちがいる事実。
主張する人に、差別や誹謗中傷、デマを拡散するのはなぜなんでしょう。
堂々と訴える姿が、うざったいから? 目障りに感じるから? 羨ましいから?
そのことに、貴重な手間や時間、エネルギーを費やすのはなぜ? 他人の不幸は蜜の味?
自分が、狭苦しい組織や、限られた社会の中で「言いたいことも言わずに我慢している」から?
人を傷つけることに注力せず、自分の想いを叶えるために行動した方が、よっぽど建設的です。
人を傷つけることで得られる快感なんて、一時的なものでしかありません。
その後にくるのは、やっぱり、解消しきれないモヤモヤだったり、イライラだったり。
それなら、そのモヤモヤやイライラの根本を、自分自身と向き合った方が、よっぽど早くすっきりします。
主張する人に嫌悪感を抱いてしまうのは、私たちが、「集団を尊重」する社会の中で、「主張する人」を異質と見てきたから・・・なのかもしれません。
「主張する人」は特別な人。政治家とか、人権活動家とか、大企業の経営者や著名団体の代表とか。
(自分は特別じゃない? 特別な人じゃないと主張しちゃいけない?)
「主張する人」は意志の強い人。確固たる思いを持っている人。多少の困難にも負けない人。
(悩み迷う優柔不断な人は主張できない? 困難に負けそうな弱い人は主張したらダメ?)
「主張する人」は目立つのが好きな人。自分に注目してもらいたい人。自分が大好きな人。
(目立ちたがり屋なんて思われたくないから、主張できない?)
でもその先入観は真実でしょうか? 本質的な分部は、まったく異なります。
私たちには、主張する自由と権利があります。自由にものが言えることは基本的人権の1つです。
まず、他人を責めることや、他人の不幸を歓迎することで、自分の不満を解消しないこと。
少し距離を置いて、客観的に振り返ったら、そんな自分自身は嫌じゃないでしょうか?
主張にたとえ賛同できなくても、「そういう意見があるんだ」「そんな思いをしている人がいるんだ」と受け止めること。賛成できない意見は、無理をして受け入れなくてもいいです。そういうものか、とまずは確認する程度で十分。
そして、自分自身も、日頃抱えている想いや考えを小出しに伝えていくこと。
他人に伝えられないなら、日記やメモに書き出すなり、絵を描いたり、運動をしたり、他人を傷つけない形での別の表現方法を見つけること。
いじめや若者の予期せぬ妊娠、不妊など、いのちと性にまつわる、あらゆる問題が、実はこの「想いを表現する」という部分に大きく関わっているように感じています。
いじめてしまう前に、あるいは安易な性行為に踏み切る前に、寂しい思いやつらさを他者へ打ち明けられるか。
どこかでいじめられても、「自分は大丈夫」と安心できる居場所や、別の楽しみを確保できるか。
不妊は身体の問題ではあるけれど、心のケアも重要になってきます。「産めない」ことへのこだわりや執着を手放せれば、「育てる」側に回ることもできます。
主張する人に嫌悪感を抱いたら、ふと自身を振り返るために、立ち止まる好機かもしれません。
そして、くすぶる想い、これまで見ないことにしてきた感情とどう向き合い、表現するかを考える。
そうして、創造的な時間や作業を生み出していけたら、「女のくせに」「男らしくない」と、ジェンダーをめぐる固定的な先入観からも、自由に羽ばたいていける気がします。
みんなの笑顔がキラキラ輝く まん丸笑顔の あいのち
すべての人のいのちと性をサポートする誕生学アドバイザー。I(私)に愛を、大地・地球を癒す知が、自身の血肉となって駆け巡るように――自分自身を知り、自尊心を育み、自分も含めて、すべての人の意思が尊重され、自尊心を高めて輝ける社会環境になるよう、情報と機会(場づくり)を提供します。
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