初回が大雑把な説明になってしまいました。小学生時代の振り返りにもう少々お付き合いいただければ幸いです。
小さい頃から子どもの世界で働くことに憧れていました。
それはなぜでしょうか。子どもの無垢なイメージや、可愛さ、自由さに何となく惹かれていたのかもしれません。
母が図書館によく連れていってくれて、小学校3年生ごろから読書に没頭していました。車の移動中や夕方の暗い部屋でも本を手放さず、目が悪くなるからと、よく注意されたことを覚えています。
当時、読んでいた物語の主人公はたいてい子どもか動物です。自身を重ね、物語の世界に入り込むのが好きでした。
高学年になって、小児科医になりたいと思っていたのは、その当時から、小児科は大変忙しく、なり手がいないと、どこかで見聞きしていたからのような気がします。
子どもの助けになるのに、なり手がいないんだ! 世話好きで、子ども好きの私には、とても意外でした。
困っている人がいるのに、それを解決できない現状があるんだ、と子どもながらに受けとめた気がします。それなら、自分がなってみたいと。
子どものお医者さんは、毎日、子どもを診察できるんだ。楽しそう。…現実を全く知らない、お気楽な子どもらしい発想でした。
自分自身も子どもなのに、子どもの支えになる仕事ができたらいいなと、何となく感じていたのが不思議です。今から振り返ると、ませているなぁと何だか可笑しくなります。
・・・
小学校時代はまるで優等生のように振る舞い、目立ちたがり屋で、控えめな弟からは疎んじられていました。弟の友達にも「お前の姉ちゃんは…」と知られていたからです。
今振り返れば、それは自己顕示欲の強さの表れだったのかもしれません。長子ゆえに、弟の出産時は祖父母にしばらく預けられ、とても寂しかったのですが、親にはその気持ちを素直に伝えられませんでした。
親に認めてもらいたい!という気持ちが強かったことが、その後しばらく、人生に影響していきます。
小学校で最初の生徒会選挙でのスピーチは、今でも強烈な思い出です。
4年生で初めての選挙に立候補し、6年生の先輩がせっかく応援演説に立ってくれたにもかかわらず、自分の話す順番になり、極度の緊張状態に陥った私は、暗記したはずのスピーチのことばをすっかり忘れて、頭が真っ白になってしまいました。
登壇した私が話さなければ、当然、シーンと静まり返る体育館……
そのとき
カー カー カー とカラスの鳴く声!
ワー!と聴衆はいっきに大爆笑。
顔から火が出るほどに恥ずかしく、その場から消えてなくなりたいと心底思いました。でも、自殺しようなんて考えもしませんでした。
その場限りの恥ずかしさで、嫌なことはすぐ忘れてしまう楽観的な性格が功を奏しました。もちろん、その選挙には落選しましたが、翌年、再挑戦し、生徒会長を務めました。
本当は立候補するか、迷っていたのです。でも4年生の担任から「立候補するんでしょう?」と言われ、「嫌だ」と言えませんでした。その一方で、やらずに逃げるのはなんだかなぁ、とすぐに諦めきれない気持ちがあったのは事実です。
すすんで立候補したわけではないのですが、周囲はそうは見てくれません。多くの友達は好意的に応援してくれましたが、少しとんがったクラスメイトがリーダーのグループから、何となく無視をされたこともありました。
そりゃ鼻につくよなぁと大人の私から見ても、異端な子どもでした。小心者なのに、目立ちたがり。暗記したスピーチはすぐ忘れるのに、やりたがり。
「できることから逃げたらいけない」と思っていました。「嫌なことからは逃げてもいい」と多少考えられるようになったのは、もっと歳を重ねてからです。
正義感の強い父の影響もありました。私が小学校3年生のときに、近隣の商業施設の駐輪場で、中学生と思しき男の子たちが集団で1人をいじめているのを見て止めに入って叱ったり、駐車場からバックしてきた車に自分の車をぶつけられて、車で逃げた相手を、とっさに車を降りて走って追いかけたり。
トラブルのたびに「もし相手がナイフを持っていて、お父さんが刺されたらどうしよう」とドキドキしたことを覚えています。
私にとって「逃げるは恥」でした。そこで「役に立つ」なんて想像もできなかった。そんな小学生時代でした。
みんなの笑顔がキラキラ輝く まん丸笑顔の あいのち
すべての人のいのちと性をサポートする誕生学アドバイザー。I(私)に愛を、大地・地球を癒す知が、自身の血肉となって駆け巡るように――自分自身を知り、自尊心を育み、自分も含めて、すべての人の意思が尊重され、自尊心を高めて輝ける社会環境になるよう、情報と機会(場づくり)を提供します。
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