前回の投稿から、少し日が経ってしまいましたが、いのちと性の活動に至る経緯をひも解いていくシリーズを再開します。
お世話好きなお節介少女だった私は、わが身の幼さを振り返ることもなく、高校生活を満喫していました。
高校は進学校で、周囲が優秀な友達ばかりだった一方で、自分の出来なささを言い訳に、勉強にはあまり集中できず、部活に、課外活動にと、遊び惚けていたのが、今さらながら、両親には申し訳なく思っています。
それでも、好きな先生の授業は一生懸命に聞いて、学ぶ意欲はありました。
その一つが、倫理の授業でした。
今にして思えば、もともと「正解のない問いを考える」ことが好きだったのかもしれません。
その夏休みの課題で、私が選んだのは「児童虐待」でした。
1999年、当時の私と同じ年齢の母親が、1歳の女の子を衰弱死させるというショッキングな事件を新聞で知ったことがきっかけです。
高校へのほほんと通っている私と同じ年齢で母親になった人が、自分の子どもを死なせてしまう――
どんな心境なんだろう、どんな境遇なんだろう。
恵まれた高校生活を送っていた私には、計り知れない出来事でした。
子どもを救いたい。
理系科目が赤点ばかりだった私は、「小児科医になる」という小学校卒業時の夢はとうに諦めていましたが、それでも、子どもを助けられる仕事がしたい、と思うようになっていました。
これが、断片的ながらも、今も私自身の心の底に影響し続けている、忘れられないきっかけです。
虐待は、特殊な親が引き起こす問題だと思いますか?
愛するべきわが子をいじめる、無視する、脅したり暴力を振るったりするのは、やはり異常なことでしょうか?
親なら、当然、子どもが可愛いと思える、感じられるのが当たり前でしょうか?
子育てに携わったことのある人なら、誰しも経験するところですが、大人と子どもが1対1、あるいは大人1人で子どもを何人もお世話するなど、長時間、大人が1人きりで過ごすことは、とても高いストレスにさらされる環境です。
子どもを守りたいと思うがために気を張ります。
時間や健康には普段の自分よりも一層気を遣います。
しかし、子どものお世話は大人の思い通りにならないことの連続です。
予定通りにしよう、安全に気をつけよう、子どもを守ろう、と大人が気を遣えば遣おうとするほど、子どもとの葛藤が起こります。
もちろん、だからといって、「虐待はあってもしょうがない」と認めるわけではありません。
でも、虐待をした人を責めても、虐待は絶対になくなりません。
子育てを経験する今なら、そう断言できます。
それは、個人だけの問題ではなく、社会構造的な課題が根深いからです。
親子の関係――その虐待当事者の親子も、そのまた親の親まで遡る関係も含めて
夫婦の関係――子の親は母や父、1人ではありません。必ず男女ペアから子は生まれてきます
地域の関係――親子を支える目や手がほかになかったか、孤立していないかも大きく影響します
虐待を「自分と関係ない、酷い人がやった事件」ととらえず、「自分の住む世界と地続きで、かかわりのある世界の延長」と考えられるかどうかで、事象の見え方は全く変わってきます。
子どもを救いたい。
その想いが、現在の私の原点の1つです。
わが子だけでなく、地域の子、日本中の子、世界中のすべての子どもに思いを馳せています。
同じいのちだから。すべて大切な、かけがえのない存在だから。
手が届かないことばかりですが、微力ながら、この想いを何とか形にしていきたいと思います。
みんなの笑顔がキラキラ輝く まん丸笑顔の あいのち
すべての人のいのちと性をサポートする誕生学アドバイザー。I(私)に愛を、大地・地球を癒す知が、自身の血肉となって駆け巡るように――自分自身を知り、自尊心を育み、自分も含めて、すべての人の意思が尊重され、自尊心を高めて輝ける社会環境になるよう、情報と機会(場づくり)を提供します。
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