なぜいのちと性の活動をしているのか   4.「個」の主張

前回、中学生時代を振り返り、自分自身を他人の中に探していた過去に触れました。

そんな私は今でも時折、見え隠れします。

他人の視点にはっとさせられ、意見や考えに揺さぶられ、根拠を他に求めようとしてしまうことが、時としてあります。

でも今なら、そんな自分も受けとめつつ、「自分は自分」と少しずつ思えるようになってきました。

何かを選んだり決めたりする際、たとえ迷って揺れたとしても、誰もが最後は自信をもって、その人らしい選択や決断ができる社会にしていきたいとの考えが、私のいのちと性の活動の根幹の1つになっているとの背景があります。

もう少し、その辺りをひも解いていきたいと思います。




私の十代前半は、「堂々と自分の意見を言える」先輩たちにずっと憧れていました。

それは今にして思えば、優等生らしく振舞って、先生や親の意向を自身の行動に反映してきたため、「私」主体で考える癖が身についてないからでした。

でもそもそも、日本の教育や風土そのものが、「個」を発揮しづらい環境にあると感じます。

学校では、集団行動が基本。クラスで「俺が」「私が」と主張する子は珍しかったですよね。

もし、そういう子がいたら、すっごく目立つことこの上なし。

取り巻きの友達にちやほやされるか、何となく嫌がられてハブられる(のけ者にされる)か。

その場の「空気を読み」ながら、はみ出さず、目立つことなく、何となく合わせる。


もちろん、そういうことが得意な子と苦手な子とがいて、私はまぁ、どちらかと言えば得意な方でした。

自慢でも何でもありません。念のため。得意だから良い、というわけではないからです。

しかし、得意だからといって、特にリーダー的存在になることもなく。

小学校時代は特に良い思いも、悪い思いもありませんでした。

中学生時代は、場の空気が変わりすぎて、うまく付いていけずに、逆に大変でした。


そして劇的な体験。それは中学3年生の夏休み。

縁あって、およそ3週間、ニュージーランドで単身でホームステイしたことでした。



同じ市内の中学2・3年生十数名が、それぞれ1人で家庭に宿泊しました。

日本とよく似た気候で、しかし空は北海道のように広く、季節は日本とは反対に冬でした。

どこまでも続く広い牧場で雨上がりに見た大きな大きな虹は、今でも忘れられません。


ニュージーランドでは、ホストフレンドが通う現地の私立高校へ一緒に通学しました。

いくつか、忘れられない体験をしましたが、その一つが、夜の討論会でした。

同世代の十代の仲間が集まり、共通のテーマで数時間にわたり、真剣に議論をしています。

最後には、泣き出す人も出ていて、びっくりしました。その子を仲間が背中をさすり、慰めます。

日本の学校では、生徒同士でこれほどまでに真剣に議論をしたことがありませんでした。

国籍は違えど、同じ年代の日本人として、すごくすごく衝撃的でした。



欧米文化は個人主義が強い傾向にあることは何となく知っていました。

でも、具体的に、日本人と欧米人で何が違うのか、何も知りませんでした。

そして、ニュージーランドには韓国やインドなど世界各国から留学生が集まっています。

十代でも「あなたはどうなの?」と必ず聞かれる雰囲気がありました。

それを討論会で改めて強く感じたのです。

日本の調和主義を否定するつもりも、欧米の個人主義を絶賛するつもりもありません。

日本文化と、欧米文化、それぞれに長所と短所があります。

でも、周囲の声に耳を傾けつつ、最後に責任をもって態度や意見を決めるのは「自分」だという、「個」を尊重する世界が、いつも大人を頼りにしてきた私にとってはショッキングでした。

・・・そうか。十代で自分の意見を言っていいんだ、十代でこんなにも主張していいんだ、と。


いのちと性の課題において、たとえば、誰かにいじめられても、究極的なことをいえば、最終的に「自分は自分」と思えるかどうかが、生死を分けます。

誰かが嫌なことをやってきたり言ってきたりしても、それを自分自身の見方と断つことができるかどうか、自分には自分の居場所があるとおもえるかどうか、です。


また、若者を中心に最近、話題になっている性的同意(セクシャル・コンセント)も、相手に流されず、「私はこうしたい」ということを表明できるかがカギになります。


最近、ようやくディベートなど、学校の授業でも議論する機会も意識的に増やされてきましたが、まだまだ、日本人の友達同士の場では、同じ世代が議論するというのは、当たり前ではないのでしょうか。

むしろ、子どもたちだけでなく、大人たちにとっても、議論するのは「TV番組」や一部のシンポジウムなど、一般の人にとっては、縁遠い世界なのかもしれません。

欧米が何でもいいとは思いませんが、「個」が尊重されるからこそ、それぞれの人権も当たり前のこととして、保障される環境になるように思います。


一人ひとりのいのちと性が輝く社会にするためには、誰が何を言っても、その意見や考えが他人を傷つけるものでなければ、1人の人間の意見や考えとして、尊重されることがめっちゃくちゃ大切です。


その大前提を多感な十代半ばで体感する機会を得たことが、私の人生観を大きく変えました。

皆さんはどうですか。

ご自身は、そう感じられたことはありますか。

お子さんには、どんな体験をさせたいですか。

「個」より集団を尊重することが未だに多い日本人にとっては、永遠のテーマでもあると思います。

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みんなの笑顔がキラキラ輝く まん丸笑顔の あいのち

すべての人のいのちと性をサポートする誕生学アドバイザー。I(私)に愛を、大地・地球を癒す知が、自身の血肉となって駆け巡るように――自分自身を知り、自尊心を育み、自分も含めて、すべての人の意思が尊重され、自尊心を高めて輝ける社会環境になるよう、情報と機会(場づくり)を提供します。